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主語は常に自分

 

主語は常に自分であるべきだ。

 

世間は許さないとか、人としてとか、ファンとしてとか

まるで何かの集合体の、代表として物事を語るのはなんだか変だ。

 

自分、個人の意見にするのが怖いから、もしくは一人の意見だと弱すぎるから

バックに大勢を率いて意見をしているのだとしたら

その姿は滑稽だ。滑稽だと思ってみると、その表現をしてる人が笑えてくる。

もしかして笑わせてくれるためにそうやっているのか?

 

 

 

反対意見がある人だけが意見を言い、反対ではない人はあまり意見を言わないとすると

 

意見が出る場では、反対意見ばかりのようになってしまう。

 

だから反対意見を持つ人は、みんなと自分は同じなんだ。みんなが言ってるから自分も言おう。となり

 

仲間意識の元、反対意見を、みんなの声と言わんばかりに言ってくる。

 

しかし、ほとんどの場合、無言の支持者のほうが圧倒的に多い。多すぎて多すぎてどうにもらない現実があり

 

一部の、ほんの一部の一部だけが盛り上がることになる。

 

そんな一部にはなりたくないな、と思う。私としては。私一個人としては。だったらお前が勝手に

 

そうすればいいだけじゃね?と自分で思うのだけど、その通りだ。

 

そんなところで憂さ晴らしをしたくない。 というかそんなことでは、憂さが晴れない。

 

それくらいで憂さが晴れるなんて、羨ましくもある。いや、憂さ晴らしでやってるわけではないのか?

 

もしかしたらやってみたら、私も憂さが晴れるのか?

 

でも、何も反対意見が思い浮かばない。。。。

 

自分が殴られても、謝罪しろ!と言えないのに、人が殴られた時に、謝罪しろ!と言えるのか?と考えたみたけど

 

もしかしたら人が殴られた時のほうが、言えるのかもしれない。

 

不思議だな。

 

 

at 16:25, あおき, -

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